働く、遊び、時々出かける

ちょっと真面目に書いてみようと思ってます

家族を考える:天童荒太「家族狩り」

秋の夜長は読書とブログ」なんだそうである。なるほど、読書の秋だし、読んだ本の感想をブログにアップして、アクセスしていただいた方々に紹介してみようということだ。

個人事だが、私は一般的なレベルからすれば本をよく読む方だと思う。過去に読んだ本については、簡単な内容だけど感想めいた記録を残したりしている。そんな過去の記録から、自分でも「すいぶん力入れて記録しているなぁ」と呆れた作品があったので、それを紹介してみたいと思う。天童荒太「家族狩り」だ。なお、以下に掲載する感想は、私が個人的に感じ、考えたものであり、その内容に関する責任は筆者である私個人にある。気を悪くされる方がいたらゴメンナサイ。

 

「家族狩り」が抱えているテーマは、“家族”そして“愛”だ。あまりに身近で、あまりに普通で、誰も意識したことのない“家族愛”を、天童荒太は、必死で噛み砕き、飲み込もうとあがいている。そのあがきが、作品として昇華したときに、そこに傑作が生まれる。代表作「永遠の仔」も、直木賞を受賞した「悼む人」もやはり“家族愛”の物語だった。

 

「家族狩り」も、そのタイトルが示すようにテーマは家族愛である。1995年から上梓されたオリジナル版は、生きながらノコギリで肉を絶たれる描写(皮膚を裂き、筋肉の繊維をプツプツと切断している様が実にリアルであったと記憶している)など、ややホラー色の強い作品だった印象がありながら、そのテーマ性もあってか山本周五郎賞を受賞している。その文庫されるにあたり、天童荒太は、ある試みを行うことにした。かつての「家族狩り」をそのまま文庫にするのではなく、新しい「家族狩り」として作品化する。それは、実質的に新作の書き下ろしとなる。このような形に至った心境を、天童は第一部である「幻世の夢」のあとがきでこう書いている。

 

もちろん95年版のまま文庫化し、いま必要と感じる問題は、まったく別の新作で展開すればよかったのではと思われる方もいらっしゃると思います。『家族狩り』を新たな形で書き下ろすことを選択した理由の一つは、自分の内面とあわせ、現在の社会状況が関係しています。

  (中略)

こうしたいまを生きている人々に、時代背景と密接に関係している『家族狩り』の物語を、旧来のまま届けることがよいのかどうか、送り手としてためらわれました。

―――『幻世の祈り』あとがきにかえて(p.281-282

 

天童荒太にとって、「家族狩り」は、その時代を反映し、リアルタイムに生きている作品なのだろう。多くの作家が、単行本刊行当時のままに文庫化するのが多い中で、このような取り組みには、おそらく賛否両論あるだろう。作品が出版され、流通された時点で、それは作家の手を離れたとすれば、その作品を大幅に変更することは許容できないと考える人もいるかもしれない。一方で、作品は常に作家のものであり、その去就は作家にあるとすれば、作家が作品をさらに強化することは歓迎すべきと考える人もいるだろう。私は、「家族狩り」に関しては後者の考え方である。それは、実際に全五部作を読み終えての考えだ。確かに、95年版の「家族狩り」は、ひとつの完成形である。だが、天童自身が書いているように、その時代背景の密接に絡んだ作品である以上、今新たに時代を掴み、新しい家族狩りとして昇華されるのは、当然のことのように思える。

 

まず、「家族狩り」のあらすじを説明しておきたい。なお、ネタバレしている部分があるので、文字色は反転しています。

【あらすじ(ネタバレ!)】

埼玉、千葉で子供が親を殺害し、自らも命を絶つ無理心中事件が相次ぐ中、巣藤浚介は隣家の麻生家で無惨な死体を発見する。両親は、生きながらにしてノコギリで肉を断たれており、子供はカッターナイフでのどを刺して死んでいた。警察は、子供が両親を殺害し、自殺を図った無理心中事件と断定するが、馬見原はその決定に疑問を抱く。そんな中また同種の事件が発生。今度は両親を生きながらにして灯油をかけて焼くという残虐さであったが、やはり子供は自殺していた。馬見原は、浚介の証言である薬物の匂いを頼りに、シロアリ駆除業者を独自で調査する。馬見原の捜査線上に浮かんだのが、かつてわが子を殺害した大野だった。大野は、わが子を殺害したが情状を酌量され軽微な判決を受け服役、出所後東京でシロアリ駆除業者として開業していた。大野の元妻である山賀葉子も上京して、大野の家の隣に居を構えて心の悩み相談室を開設していた。状況的に大野、山賀の犯行とにらんだ馬見原は、ついに彼らが事に及ばんとする場面に追いつめるが、油井に撃たれてしまう。大野、山賀のターゲットは、芳沢家であり、浚介と游子は芳沢亜衣からの携帯電話で現場へ急行する。追いつめられた大野と山賀は、亜衣を人質に現場から逃走。亜衣を富士の樹海に置き去りにして姿を消す。

【あらすじ(ココマデ)】

 

「家族狩り」の主要な登場人物は以下の通りだ。

 

  • 巣藤浚介・・・高校の美術教師。両親の偏向的な思想教育のトラウマをもつ
  • 氷崎游子・・・児童相談所職員
  • 馬見原光毅・・・刑事。息子を亡くした過去があり、妻は精神を病んでいる。娘とは隔絶状態
  • 芳沢亜衣・・・浚介が勤務する高校の生徒
  • 冬島綾女・・・ヤクザの夫の暴力・虐待を受け、馬見原の保護下にある女性
  • 冬島研司・・・その息子。父親に虐待され、頭蓋骨骨折の過去あり。
  • 大野甲太郎・・・シロアリ駆除業者。かつて、わが子を殺害したことがる
  • 山賀葉子・・・大野の前妻。電話相談室を運営

  

「家族狩り」の登場人物たちは、それぞれが何らかの形で家族に対するトラウマを抱えている。巣藤浚介は、極めて偏った思想の持ち主である両親から、どんな些細なことも、それが自己中心的な事項であれば、すべて拒絶するように育てられてきた。一切の娯楽、行事を禁止され、異を唱えれば打擲された。15歳で家を出た浚介は、両親から「おまえは死んだと思うことにする」と言われ、以来一切の関係を絶っている。馬見原は、仕事一筋の刑事であり、家庭を顧みずに仕事に打ち込んできたが、厳しく育てたはずの息子がまるで自殺のような事故で死亡し、そのショックで妻佐和子が精神を病んで入院。娘の真弓も、兄を死に追いやり、母を精神崩壊に追い込んだ父を恨み、拒絶する。そんな中で、ヤクザである男から暴力と子供への虐待に苦しめられていた冬島綾女と出会い、彼女と息子の研司を守るべく、その夫である油井を別件逮捕で刑務所送りにする。綾女と研司は、馬見原を慕うが、馬見原自身は、自らの家庭のこともあり、思い悩んでいる。そこへ、油井が刑期を終えて出所してくる。大野と山賀は、四国高松での夫婦時代に、家庭内暴力をふるう息子を思いあまって殺害した過去を持つ。その経験から、家族にとって必要なものは何を独自に確立し、その考えに基づいてある行動をとっている。このように、彼らはそれぞれに内面的なドロドロとした家族関係を持ち、その重荷を背負って生きている。読者は、その重量感をずっしりと感じさせられることになる。それぞれのトラウマは、小説だからといって表面的ではなく、まるで実在の人物が抱えるトラウマをさらけ出しているような印象を受ける。それぞれのキャラクターが、それぞれに抱えたトラウマを、作品の展開と共に、あるものは間違った方向へ展開し、あるものはそれを克服する方向への歩き出す。その心情の変化の微妙さも天童は丹念に描こうとしているように思える。

  

例えば、浚介がそれまでの無気力教師から変化するきっかけとなった事件がある。浚介が、隣家で発生した一家殺害事件の第一発見者となり、その恐怖を忘れるために酒を浴びた夜に「オヤジ狩り」に遭遇するエピソードだ。最初の死体発見だけで終わらせず、そこに浚介自身に危害の及ぶ事件を組み合わせることで、浚介の心情の変化が出やすいようにストーリーが展開されているわけで、このあたりはうまいと思う。

 

天童荒太は、ミステリーの枠組みを上手に活かしながら、自らの家族観を作品に全力でぶつけてきている。それは、前作「永遠の仔」でも見られた。そのためか、作品の発表ペースは寡作であり、本書が五冊目にあたる。その才能を高く評価する身としては、そのあたりが悩ましい。それは、早く次の作品を手にしたいという欲求と、じっくり時間をかけて最高の形で見せて欲しいという欲求との葛藤である。世の中には雑な作品を節操もなく連発するだけの流行作家も多い。かつて、社会派作品やハードボイルドなどの多彩な作品で読み手を楽しませてくれたミステリー作家は、気がつけば鉄道ミステリしか書かない流行作家になってしまった。天童荒太には、そのような面白味のない流行作家にはなって欲しくないと思う。

 

 

幻世(まぼろよ)の祈り―家族狩り〈第1部〉 (新潮文庫)

幻世(まぼろよ)の祈り―家族狩り〈第1部〉 (新潮文庫)

 
まだ遠い光―家族狩り〈第5部〉 (新潮文庫)

まだ遠い光―家族狩り〈第5部〉 (新潮文庫)

 
遭難者の夢―家族狩り〈第2部〉 (新潮文庫)

遭難者の夢―家族狩り〈第2部〉 (新潮文庫)

 
贈られた手―家族狩り〈第三部〉 (新潮文庫)

贈られた手―家族狩り〈第三部〉 (新潮文庫)

 
巡礼者たち―家族狩り〈第4部〉 (新潮文庫)

巡礼者たち―家族狩り〈第4部〉 (新潮文庫)